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2008年1月20日 (日)

寒餅搗き

Photo   空中に白い太陽が朧に浮かんでいる。村の温泉から湧き出る湯気が光をさえぎっているのだ。湯気は白い霧になって、村中に立ち籠める。むかし壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党がこの霧の底に逃れて身を潜めた。山の上の源氏の追討軍はそれをみて弓矢を納め、引き揚げていった。平氏一族が大きな湖に身を投じたと思ったのだ。

「じゃから俺の先祖は平家の公達じゃ」と呟いていたツナ君はたしかに平(たひら)集落の出身だったが、今は東京・浅草の靴屋の店長になっている。

  さて朧な霧の中に寒餅あられの旗を押し立てる。黒に白抜きののぼり旗が古い茅葺きの屋根の前ではためく日に、わが家名代の寒餅搗きが始まる。

  春まだ浅き戦線の/古城にかおる梅の花/せめて一輪母上に/便りに秘めて送ろうじゃないのか

  まずはキヨじいいさんの美声を思い出す。村いちばんの唄い手だったキヨじいさんは、中国戦線で北支派遣きっての銃剣術の使い手だった。わが家の寒餅搗きを指揮して一日何十臼、毎日搗き通しても息ひとつ乱れなかった。姿は決まって正面・真向唐竹割りで、脚の踏んばりは地中から生えたようだった。無口だけれど、キヨじいさんは無骨ではなかった。笑顔がやさしかった。仕事が終わって直会になるとキヨじいさんはにんまりと軍歌を歌い始める。

  キヨじいさんの軍歌はかぼそくて、やさしくて、切ないものだった。

  その頃キヨじいさんのほかにも多くの村の青年たちが、中国や満州(中国東北部)や、東南アジアの国々に旅をした。費用は官費で、服や、靴や、銃や、弾薬やなにがしかのオカネまでも支給されたが、代わりに多くの青年が遺骨となり、あるいは思い出したくない思い出を秘めて、村に帰ってきた。村は華々しくアジアに開かれていたが、青春の思い出はひと握りの軍歌の中に押し込められ、ときにはハラハラと洩れこぼれるほかはなかった。

  さて村の郊外に日出生台という陸上自衛隊の演習場がある。明治33年、日露戦争に備えて拓かれた旧帝国陸軍の施設である。そこに10年前から沖縄米軍の海兵隊がやってきて実弾演習をやる。二月の雪の風景が北朝鮮に似ているというのだが、そうだとすれば村は沖縄、朝鮮、アメリカに向かって開かれていることになる。いや明治以来、村は日出生台演習場を要にして世界の戦場にるながっていたのかもしれない。

  さて、搗きあがった寒餅を多勢でモロブタ(木箱)に伸ばし、半生の状態でアラレに切る。蔵に広げて三月、桃の花の咲く頃に斗缶に詰め、あとはそのつど炭火で煎って、沖縄の黒蜜をからめながら。ポリポリと食べる。それが村の観光土産となる。

                                              (富士総合研究所   February  2001  faiより)