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2008年4月15日 (火)

山小屋が始まった

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♪ 夏も近づく八十八夜/野にも山にも若葉が茂る/あれにみえるは茶摘じゃないか/茜襷に菅の笠

  八十八夜がやってくる。立春から数えて八十八日目だから、今年は5月1日になる。(閏年)

  戦後中国戦線から復員してきた父親は、すっかりくたびれていたけれど、お茶を摘む季節になると少しだけ元気を取り戻すのだった。

  母親は村の畑に出て近所の主婦たちといっしょにお茶の葉を摘む。庭はずれの山小屋では漁師村からきたお手伝いさんが、力いっぱいに葉っぱを蒸してくれる。父と私はその山小屋の囲炉裏に座って、蒸しあがったお茶の葉をシコシコと揉みあげるのだ。

  朝から夜まで山小屋に篭って数日間作業を続けると、本宅の猫が置いてけぼりをくったと思って、子猫をくわえて越してくる。父親と私は、ラジオから聞こえる大鵬・柏戸の大相撲に耳を傾けながら、いつまでも囲炉裏でお茶の葉を揉み続ける。

  山小屋は、村人とキンさんの家族が焼材で建ててくれた。戦後すぐに奥屋敷の別宅をキンさんに貸して、こっそり造っていた焼酎の小屋から火が出たのだ。「スミマセンデシタ」とキンさんが涙を流し、家族そろって何日も再建奉仕をしてくれた。村の人たちも「焼酎でお世話になった」というので加勢してくれて、おかげで立派な焼材の山小屋が出来上がった。

  噂が広がると福岡から、若い学生さんたちがやってきた。1人1泊40円、毛布1枚10円。電気・水道・炊事場完備。

  こうして、村ではじめての山小屋観光が始まった。山小屋のパーティーで、中学生の私が歌った替え歌。

  朝も近づく12時ごろは/野にも山にも火の珠ばかり/あれに見えるは幽霊じゃないか/白い着物に足がない

  いつも、村のトクちゃんといっしょに、大声で歌いながら学校に通った歌である。当然本歌よりもするすると出てくる。その解説─。

  朝も近づく12時ごろは─というのは少々おおげさだが、朝4時前にトクちゃんは山に登る。牛の飼草を切るためだ。露の深いうちがよく切れる。早い時間なら近くの良い草場にゆけるし、帰ってからの朝飯前の畑仕事にも余裕ができる…。

  梅雨も間近な早朝の空の下。暗い草原に時折、牛の眼や草刈鎌や野の露が光る。人影も動く。それが火の玉でも、幽霊でもないことを知らせ合うために、村人たちは口々に歌を歌いながら草を切るのだ。

  だからトクちゃんはすばらしく歌がうまく、その弟子であった私も相当にうまい。 

2008年3月21日 (金)

桜前線は何を見たか

春4月、桜前線が日本列島をかけのぼってゆく。2

むかし長崎の硫黄島から、北海道の中標津まで、春にまみれて日本列島をのぼってゆく家族の映画があった。(「家族」山田洋次監督、1970年、松竹、笠智衆・倍賞智恵子ほか)その映画を、山ひとつ向こうの別府の街で、友達と一緒に観た夜、何軒かの呑み屋を廻って帰ってみたら、長男が熱を出していた。カミさんに怒られながら、もう一度別府の小児科病院に車を走らせた暗い山道は、眩しいばかりに咲き誇る桜のトンネルだった。そんな夜もあった。そんなふうにあちこちの村に春があり、人々の暮らしがあった。

今、年間370万人の観光客がやってくる。オカネにして170億円、波及効果は300億円といわれている。しかし、村の自然を育て、歴史を組み立ててきた農業は、年間20億円の生産高を超えることができない。観光土産品の売上が40億円を突破するといわれている現状の中で。春4月、夕日を照り返して玻璃のように光る村の田圃が少しづつ狭くなってゆく。減反政策が進んでいるのだ。そしてアメリカの暮らしの流儀が圧倒的な速さで村の隅々に流れ込んでいる。闘いは北米騎兵隊に包囲されたネイティブ・インディアンの様相を呈してきた。誰か由布院インディアンの独立戦争を応援してくれる勇者はいないか。農家の牛は村の牧野から降ろされて舎飼いとなり、輸入資料に頼るほかはなくなった。牛飼いの仕事が採算に合うことも、和牛肉が美味しく安定することも、この先もうないだろう。広い牧野が生命を失って枯れ草色に染まってゆく。

日本列島をかけのぼりながら、桜前線は見たにちがいない。村々の、町々の暮らしが連なり、組み合わさってできている日本という国が、次第にカーキ色に変わってゆく奇妙な風景を。それでも今年、春4月、湯山に桜が咲き、里には連翹が盛りこぼれて、春は今たけなわである。さあ、新しい仲間と呼び合って、雲雀あ がる丘の牧野に牛の群を放とう。

2008年2月25日 (月)

タイ子さんの17回忌

_0001_3    九州を横断する国際観光道路「やまなみハイウエイ」が由布院盆地を貫通した、その翌年の春の「桜」を忘れない。40年ほど前である。「国際観光」だから外国人が来るぞ。「ウエル・カム」「ヴェリ・マッチ」・・・。「学校で習うた英語を担いで、由布院に帰れ」、若者が次々に呼び戻され、私もホヤホヤのカミサンを連れて由布院に帰った。家の周りに柳が散っていた。「どうする、これから?」。紅葉の山に横断道路が開通し、延々と車の列がゆくけれど、鶏が遊んでいる盆地に入ってくる車はほとんどいない。「外国人どころか、日本人も来やへんど」。とうとう由布院盆地は、時代の節目から落ちこぼれたのか?だんだん大きくなるカミさんのお腹を気にしながら呟く。(どうにかしなくちゃあ)。夫を失って3年目の冬を迎える母のタイ子さんは、「ま、急ぎなさんな」と落ち着いている。好物の珈琲だけが私とタイ子さんを繋ぐ小道具だ。ゴシゴシと大風呂の掃除をしながら、正月の山場を越えて、季節は、樹氷の花光る「大寒」になった。すると突然、母のタイ子さんが立ち上がったのだ。凍てつく水を手水に使って67人の働き手を指揮し、「寒の餅」を追い上げる。搗いて、切って、干して、混ぜて、桃の花の咲く頃まで作業は続いた。すると一気に春が来た。土筆、甘草、芹、菜の花、蕨、ぜんまい、独活、野蒜が土の中から吹き上げてきた。「なあも、はや心配は要らんがや」。故郷の「加賀なまり」で母が言った。「大桜が咲いたら花見をしまっしょ、通りがかったお人は、何方でもお寄りませ」。花見の日が来た。連翹の咲き残る内庭に莚を敷き、茣蓙を広げて、大きな幹を背にタイ子さんが笑っている。祖父が植えたという大桜が、雪の天蓋のように空を覆い、ざわざわと人が屯する。漆のはげた清朝の食篭が持ち出され、酒は大徳利、焼酎には保温瓶、木皿と湯呑みと箸が回された。みんな笑っている。花が散っている。私の記憶から「東京のアパート」が消え、「なあも、はや心配は要らんがや」という母の台詞が刷り込まれた。その後、我が家のお客様は少しずつ増え続け、「お寄りませ花見」は40回を越えている。そして、タイ子さんの17回忌がやってくる。

2008年1月20日 (日)

寒餅搗き

Photo   空中に白い太陽が朧に浮かんでいる。村の温泉から湧き出る湯気が光をさえぎっているのだ。湯気は白い霧になって、村中に立ち籠める。むかし壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党がこの霧の底に逃れて身を潜めた。山の上の源氏の追討軍はそれをみて弓矢を納め、引き揚げていった。平氏一族が大きな湖に身を投じたと思ったのだ。

「じゃから俺の先祖は平家の公達じゃ」と呟いていたツナ君はたしかに平(たひら)集落の出身だったが、今は東京・浅草の靴屋の店長になっている。

  さて朧な霧の中に寒餅あられの旗を押し立てる。黒に白抜きののぼり旗が古い茅葺きの屋根の前ではためく日に、わが家名代の寒餅搗きが始まる。

  春まだ浅き戦線の/古城にかおる梅の花/せめて一輪母上に/便りに秘めて送ろうじゃないのか

  まずはキヨじいいさんの美声を思い出す。村いちばんの唄い手だったキヨじいさんは、中国戦線で北支派遣きっての銃剣術の使い手だった。わが家の寒餅搗きを指揮して一日何十臼、毎日搗き通しても息ひとつ乱れなかった。姿は決まって正面・真向唐竹割りで、脚の踏んばりは地中から生えたようだった。無口だけれど、キヨじいさんは無骨ではなかった。笑顔がやさしかった。仕事が終わって直会になるとキヨじいさんはにんまりと軍歌を歌い始める。

  キヨじいさんの軍歌はかぼそくて、やさしくて、切ないものだった。

  その頃キヨじいさんのほかにも多くの村の青年たちが、中国や満州(中国東北部)や、東南アジアの国々に旅をした。費用は官費で、服や、靴や、銃や、弾薬やなにがしかのオカネまでも支給されたが、代わりに多くの青年が遺骨となり、あるいは思い出したくない思い出を秘めて、村に帰ってきた。村は華々しくアジアに開かれていたが、青春の思い出はひと握りの軍歌の中に押し込められ、ときにはハラハラと洩れこぼれるほかはなかった。

  さて村の郊外に日出生台という陸上自衛隊の演習場がある。明治33年、日露戦争に備えて拓かれた旧帝国陸軍の施設である。そこに10年前から沖縄米軍の海兵隊がやってきて実弾演習をやる。二月の雪の風景が北朝鮮に似ているというのだが、そうだとすれば村は沖縄、朝鮮、アメリカに向かって開かれていることになる。いや明治以来、村は日出生台演習場を要にして世界の戦場にるながっていたのかもしれない。

  さて、搗きあがった寒餅を多勢でモロブタ(木箱)に伸ばし、半生の状態でアラレに切る。蔵に広げて三月、桃の花の咲く頃に斗缶に詰め、あとはそのつど炭火で煎って、沖縄の黒蜜をからめながら。ポリポリと食べる。それが村の観光土産となる。

                                              (富士総合研究所   February  2001  faiより)

2007年12月22日 (土)

「正月や 犬の啼き声 ラッパの音」

由布院盆地の住人には「歌舞音曲」の巧者が多い、なぜか?「盆地の所Photo_2為」だ と思います。盆地の広さが大きからず、小さからず程がよろしくて、山に叫べば、「山彦」の響きが気持ちよく返って来ます。夏の昼下がりに、突然鳴り渡る雷には驚かされますが、それさえも「音楽的」ではないにしても「音響的」とは言えましょう。由布院盆地が「手回し蓄音機」の「音響箱」になっていて、だから盆地の音が柔らかく、良く響くのです。そんな村に生まれ育った人たちが、よく響く声を持っていない筈はありません。
サトウ・キヨタカさん、81歳。三年前、桃の花の盛りに亡くなりました。素晴らしい声の持ち主でした。「俵を立てたような」と奥さんのカナエさんが評した「ずんぐり・がっちり」の体躯から、」信じられないほど「優しい音」が立ち上ってきます。
中国戦線を戦い抜いて、敗戦の村に帰り、50余年を村のお世話役に生きたこの人は「盆口説き」に拡声装置を用いなかった。「生」の口説きに、「生」の囃し、それが互いに響き合って、「踊り」は盆地の空に高く映えたのです。近頃は村を疾走する車の音に対抗して、拡声機を張り巡らすので、「デンキ仕掛け」の大音声が盆地に響き渡ります。
夏の「お盆」の音が変わった。同時に春の「お正月」の音も変わりました。嬉しそうに走り回っていた犬たちの「啼き声」は聞こえなくなり、奇妙な「ラッパの音」も盆地に響かなくなりました。犬はお正月の「祝儀」に解き放たれて走ったのであり、ラッパは軍隊に憧れる若者たちが吹き鳴らしたものでありました。
幾時代かがありまして、今年また静かな正月がやってくる。旧正二月には私、74歳になります。人生は長く、歴史はもっと長いなあ。  
 

                        「梟  SEI・HALL 湯布高原  コンサート倶楽部」Vol.11 掲載文 より

2006年9月 2日 (土)

「ビルバオ」ー甲冑を纏った美術館の話

Cimg4399_7 6月、「風の食卓」をお腹一杯に詰め込んで北海道の青い空を飛び、熱気むんむんの「台湾食卓」へ。我が家の社員A班26名を引き連れての「懇親・満腹旅行」です。しかしこの話は、ホウ・シャオ・シェン監督の「非情城址」ロケ地、「九フン村」が奇妙に懐かしかったことを書き留めれば足ります。ほかはすべて端折りましょう。地球は回る、矢のように・・・。

翌7月頭には、西風に吹かれてピレネー山脈を超え、フランスとスペインに跨るバスク地方へ、由布院旅館仲間の研修旅行です

パリ・ドゴール空港から2時間でビルバオ、そこに「グッゲンハイム美術館」が建っていました、チタンの甲冑を身に纏った中世の巨人です。ま、それはニューヨークの「蝸牛お化け」グッゲンハイムが変身して、ここビルバオに上陸したという、それだけの話ですが・・・、いや、それだけじゃない、じんわりと衰亡を辿っていたビルバオが、10数年前に、この中世巨人を旧市街脇に迎えて以来、みるみる元気を取り戻したという、いわゆる「創造文化都市」創生の伝説もあります。だけどそれよりも私がまっすぐに仰天したのは美術館の前の巨大な「ワンコーの像」です。その話はまたこの次に・・・。

2006年7月24日 (月)

「ブンブン豚の子、空を飛ぶ」

68460025_2 さて6月頭に駆けつけた「渡来人まつり・in浅間」とはナニモノだったのか?いまは「夏休み」、昔のことは忘れましたが、忘れられないのは頭上から落ちかかってきた「音の洪水」と「涙の沸騰」、在日韓国・朝鮮人グループの命の叫びです。神宮寺の高橋卓志さんに招かれて、記録映画祭の埃も払わずに駆けつけましたる「渡来人まつり・in浅間」、そこで出会った在日諸氏の「文字の優雅さ」と「焼き物の雄渾さ」「振る舞いのやさしさ」に脱帽しました。出演の方々は新井英一・趙博・杜保・李政美・趙寿玉(舞踊)・庚明洙(サムルノリ)。

そして数日後の6月半ば、北海道は「洞爺湖ウインザー・ホテル」に料理顧問の斉藤寿さんを訪ね、3星レストラン「ミッシェル・ブラス」の夕飯を食べて泊まるという、「仰天贅沢」の夜がありました。翌日は、3月に由布院に飛来して、大分県主催の「風の食卓・料理シンポ」を敢行して下さった「モリエール・シェフ」の中道博さんご夫妻、それをかっちりと支えてくださった「(元)ジャン・ムーラン・オーナーシェフ」の美木剛さんご夫妻、そして「文化記録映画祭」のゲスト「ナージャの村」の監督、本橋成一さんご夫妻と言う「強力プロメンバー」と合流しましたので、まあ次々に登場する「地場料理」の美味いこと、美味いこと・・・。由布院から参加しました「旅館・玉の湯」の従妹、溝口喜代子と「ジャム・コトコトや」の義妹、渕野夫妻、それに我ら夫妻、揃って喜ぶまいことか・・・。いや、少々疲れました。

その疲れた胃袋を待っていたのが2年に一度の、わが「亀の井別荘・社員旅行」、行く先は「台湾・台北グルマン・グルメの旅」、総勢48人を二手に分けて、私は一方のリーダー、北海道から帰った翌日、社員諸氏に担がれて(いや、そんな気分で)バスに乗り込み、福岡空港へと向かったのです。(ブンブン豚の子、空を飛ぶ)。

2006年7月20日 (木)

映画祭を走り抜けて

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さて526日の朝、「クレージー・キャッツ」とばかりにできあがった「たすきがけの湯布院」の本がごっそり、印刷所から送られてきた。そのまま第九回由布院文化記録映画祭の「資料販売コーナー」へ運ぶ。だけどこっちはそれ所じゃなかったのです。突然「追悼上映会」になってしまった「あるマラソン・ランナーの記録」の黒木和雄監督に代わって、土本典昭監督に舞台挨拶をお願いする。松川八洲雄監督が体調不順でお出でになれないので、ゲストの筑紫哲也さんを担ぎ出す。(土本監督・池内了センセ・清水浩之コーディネーターとの「吉野作造―デモクラシーへの問い」論議が素晴らしかった)。樋口源一郎監督の「真性粘菌の生活史」を、もう一本の「追悼上映」に仕上げて、石井董久カメラマンにお話を請う。やがて隣県の熊本から「もっこす元気な愛」(寺田靖範監督)の主役たちが車椅子でやってくる、などなど・・・。

ここで私、宣言しました。「来年第十回で、映画祭を引っ張る役割を降ります」、えー、ガヤガヤ・・・、すると筑紫さんが嬉しい「助け舟」を下さった。「それがいいね、日田でやった<自由の森大学>も、私10回で辞めました、いつまでもやっていると、後が育たないよ」、バンザイッ。(ヨシッ、来年は早めに「作品選定作業」を終えて、「仲間・応援・人脈づくり」にかかるぞ)。時間をかけて町内・外の「交信」「交流」を分厚くする、そんな「助走」をやらなければ「作品選定」も「実行気力」も実らないよ。そうしておいて私、退場だ。

それで早速「作品選定」にかかったか?いや、いや、映画祭が終わった5月の末日、抑え込んできた高校の「同窓会」を決行し、6月初日に、キビシイ「会社朝礼」をこなしてから、飛行機で信州・松本に飛んだ。「渡来人まつり」in浅間温泉だ。うーむ、やっぱり「たすきがけ」の疾走なのです。

2006年7月16日 (日)

<たすきがけ>のスピードで

Cimg4177_2 夏が来て、2006年の半分が過ぎ、残り半分が始まりました。速い、むちゃくちゃ速い。3月にNHKの連ドラ「風のハルカ」が終わる、あとはショボショボ、と言うわけにはいかないぞ、と、4月から「風の食卓」運動を始めた、これが立派に「的」を射抜いて、だけどなかなか大手間で、まあその話はおいおい申し述べますが、今はとにかく忙しい話・・・。
「本を書け」と言うのです、それも2週間で・・・、もちろん「書き下ろし」じゃあなくて「新版」、つまり「旧版」に筆を入れる話ですが、それにしても無茶です。「文化記録映画祭が5月26日からですぜ」あと一ケ月しかない。「ドコロじゃないよ」「いや、ちょうどいい」、<
ふきのとう書房>のメグロ・シャチョウは悠然と仰る。「映画祭の初日の売台に並べましょうや」「おいッ、シャチョウ・ご乱心ッ」、それから焼酎大会になって、いつもの通り私は「大負け」、「明日、旧版を読んでみます」と平伏してしまった、そして驚いた。20年近く前の旧版「たすきがけの湯布院」が、勢い良くメラメラと甦ったのです。目からウロコ、世の中明るい。「こうやればいいんだ、これからの<地域づくり>は・・・」。
昨年10月1日、市町村合併事件で「わが湯布院町」は「由布市」の中に塗り込められ、私が怒りながら、シコシコと書き溜めた文章が本になりました。「由布院に吹く風」(岩波書店)。出たのが私の誕生日2月28日で、いやはや、暮れから正月にかけての忙しさといったら・・・。
一冊の中で完成したのが1枚の名刺の「住所」です。「九州・由布院盆地」。「由布市」とも「湯布院町」とも名乗らない「名刺の意味」はそれなりに明快だけれど、気分の「重さ」がお腹に応える、その「重さ」が古い「
たすきがけの湯布院」を読んだ途端に軽々と消えたのです。「ヨシッ、<新版>を出そうッ」。メグロ・シャチョウと大乾杯をして5月、「たすきがけ」のスピードが始まりました。

2006年4月 9日 (日)

ミッシェル・ブラス

ブログ恐るべし。「ミッシェル・ブラス」と書く筈のところを「アラン・シャペル」と書いてしまった。「料理通信」の斉藤寿さんが北海道・洞爺のウインザー・ホテルにウルトラ・スーパー・レストランを誘致なさっている、そのレストランの名前です。何で間違ったのだろう?わからない、狐につままれた気分だけれど、間違いは歴然です。 むろん斉藤さんに慌てて訂正・お断りを申し上げるのだけれど、それで済むのだろうか、「間違いブログ」を覗いた方々が全員、?と思われたわけでしょう。その方々が、必ず「訂正のブログ」をご覧になるとは限らない。訂正は「不確か」、手続きは「厄介」、状況は「あいまい」、困ったもんだ。「正確」「迅速」「リセット」のコンピューター世界も当てになりませんなあ。つまり人生はリセットできないのですか? 6月、北海道・洞爺に旅する事にしました。ウインザー・ホテルに泊めて頂いて斉藤さんにお会いし、「ミッシェル・ブラス」のお料理をいただく。これです。これで「不確か」「厄介」「あいまい」の訂正状況が、ともあれ、すっきりする。もちろん胃袋も満足する。 ウーム、やっぱり手間暇かけて人生を生きてゆくほかはないなあ。もたもたと「手間暇」を愉しむ事を始めましょう。 つまりそういう世界に生きてるんだ、と言うことが判りました。情報が地球を瞬時のうちに飛び交う未来社会が拓けてきたら、